ミラクルマジカルハッピーブログ

もしかしてやろうと思えばなんでもできる説ある?

子どものころ、ツルを折るのが趣味だった

自分を紹介するにせよ、ブログやチャットサービスに会員登録するにせよ、必ず聞かれるのは趣味についてだ。

 

中学生くらいにもなれば、新しい先生の授業でいやというほど聞かれ、「読書です」「音楽を聴くことです」なんて当たり障りのないことを何度も言い続けたことだろう。かくいうわたしも当時開設した他サイトのブログには「趣味:読書」と書き込んでいたのだけれど。

もちろん本を読むのは好きで、図書館で毎日一冊本を借りて読むなんていう本の虫っぷりを発揮していた時期もある。しかし、よく考えてみると、それよりももっと熱中していたことがあった。

 

それは、折り紙で鶴を折ることだ。

たしか、小学生か中学生のころだったと思う。

近所のスーパーで祖父に折り紙を買ってもらっては、毎日毎晩鶴を折っていた。折り紙が物珍しいとか鶴を誰かにあげるとか、そういうわけではまったくなかった。折った鶴は全部キャラクターものの木箱にいれ、それを眺めるでもなく、ただひたすら折っては収納していた。いまでもそれはそっくりそのまま残っているけれど、宝物なんかではなく、単に収納する箱ともう折ってしまった鶴でしかなかった。

鶴を折るタイミングは特に決まっていなかった。

折りたいと思ったら折り、満足するまで折り紙を透明なビニルのパッケージから引き出すのだ。

折る鶴の大きさも特に決まってなかった。

一番メジャーな大きなサイズの折り紙で折った鶴も、スーパーに並んでいる最小サイズの鶴もそれぞれに違いはなかった。

要は、すべて気分であった。

 

これは、幼いわたしの沽券のために言っておくのだが、わたしは決してともだちがいないわけではなかった。

毎日のように学校で遊ぶ約束をしては、ともだちの家へと自転車をこいで向かい、冷たい麦茶をごちそうになったり一緒にテレビを見たりしていた。折り紙がともだちであったというわけでは決してない。さすがにそこまでさびしい幼少時代は送っていないので同情は不要である。

友達とひとしきり遊び、家に帰って夕飯も食べ、一日の終わりがくる、という前に触れるのが折り紙であった。

 

 

多趣味だと言われたことがある。

 

そう言われてからはじめて、胸を張って紹介できる趣味が見つかった気がしたけれど、相も変わらず「趣味:読書」としか記入できなかった。

 

大学生であるわたしは、アコースティックギターを買い、中学生からアニメにハマっていた影響でイラストも描き、さいきんではハンドメイドも楽しんでいる。簡単な弾き語りならできるし、初心者とは言え夏コミにもサークルで出たこともあるし、ハンドメイドアクセは毎年文化祭で販売している。

それでも、趣味だとは書けなかった。

 

アコギなんてそんなにうまくないし、イラストは大学に入ってからぜんぜん描けてなくて下手なまま、ハンドメイドだって素人のクオリティ。

そんな評価がちらついて、自分で自分を紹介する材料にはできなかった。

 

趣味っていったいなんなんだろう。

ネットに載っていた趣味の意味について簡単にまとめると、「職業・専門としてではなく楽しみとして愛好してるもの。自由時間に好んで習慣的に繰り返しおこなう行為」を趣味というらしい。

なんだ、とわたしは思った。

つまり好きでやってることはすべて趣味じゃないか、と。

うまくできようができまいが、好きでやってるのだからそれはすべて趣味であるらしい。簡単なことであった。本当は中学生のとき、自分の名前の番がくるまでにあんなに趣味について考えなくてもよかったのだ。ドンマイ、わたし。

 

 

 

でも、それは薄々気づいていた。

気づいた上でわたしは自分の趣味について悩み、見栄を張ってきたのだ。

趣味という言葉にそこまで重い意味はなかった。

絵を描くのがすきで、ずっとずっと絵を描いてきた。何年も使っているツイッターのアカウントでは、ちゃんと絵を見てくれているフォロワーが何人かはいる。多くはないけれど、目に見えるフォロワー1100人という数字だってある。とはいっても、わたしの絵は取り上げて上手だというわけではない。

胸を張ってだれかに見せる自信もないし、恥ずかしくて絵が描けますなんて言えたもんじゃない。趣味に絵を描くことなんて書いて絵が上手だと勘違いされたら大変だ。

 

 

今までずっと、上手か下手かということにとらわれていた。

趣味には能力や技術が関係するんだと勘違いしていた。

わたしが「趣味」のものさしとして使っていたのは「特技」のそれであった。

わたしはすこし考えすぎていたのだ。

 

木箱に入っている鶴は、大きさもバラバラで、時々折り方を間違ってぐちゃぐちゃになってたり、変なかたちになってたり、それでもたくさんの量があった。

あの頃のわたしが空いた時間に、継続して、好んで、折っていた鶴だ。

いま思えば、それは趣味であった。

ただ折りたかったから折っていた。好きだから折っていた。

 

わたしがいま抱えている趣味予備軍は、見栄に絡まって動けなくなっている。

どんなイラストを描けばいい評価がもらえるか、どんなアクセサリーを作ればみんなに好んでもらえるか、その答えを見つけない限り、見栄っ張りなわたしは予備軍を趣味に昇格させる気なんかなかった。

でも、そんな昇格オーディションなんてなくてもそれは元々趣味だった。大した趣味だった。

 

 

趣味についてきかれる機会はたびたびある。

趣味を聞かれてこんなことを言ったら幻滅されるかな、かっこわるいと思われるかな、と毎度考えるひとも多いことだろう。

しかし、こういっては変だが、趣味自身はぜんぜんそんなことは思ってないのだ。趣味の記入欄はたしかに格好のアピールポイントだが、特技の記入欄はそこではない。

ただ、すきなことを、評価など気にせずに、思ったままかけば、それで趣味としては満足がいくのだ。

 

今日は、木箱にたまったたくさんの折り鶴を見ながらそんなことを考えていた。

とりとめのない話だ。

今度「趣味はなんですか?」と聞かれたら「多すぎて答えられないです」と笑顔で返してやろう。趣味のブログを書きながら、そう思った。